左平次の想い
 

「山の湊 かわら版」第1話


この写真、一度は何処かで目にした事があるだろう。長篠の戦いで籠城する味方(奥平貞昌以下五百名)を救うため、城を脱出、岡崎にいる家康、信長に援軍を請い、城に帰還する途中で武田方に捕まり、磔にされた鳥居強右衛門の図である。(強右衛門の話は子供の頃よく聞かされた)
 磔にされた姿を写し取った落合左平次と言う武将が自らの旗指物とした為に後世に残った。
この落合左平次なる人物、いったい何者?ネットで調べてみると、武田方の武将との説と、徳川の家来だったとの二説ある。このことは左平次という人物の評価だけでなく、当時の武士の在り様にも大きく関係してくる。
 信玄の死後、上洛の夢は潰えたとは言え信玄時代の領土は確保しており、更に信玄すら落せなかった高天神城(静岡県掛川市、徳川方の城)を落として勢いに乗る武田勝頼が、この長篠の戦いの敗北の後、一転衰退の道を辿った。大量の火縄銃を使用したと言う戦術面よりも、日本の歴史の大きな転換点として評価される。
 単純な疑問は、もし落合左平次が武田方の武将なら、敵のヒーローを旗指物のデザインとして使ったら勝頼や他の武将に怒られるでしょう。それでも使ったと言うなら、強右衛門の磔死は味方どころか、敵の武田方の兵士達をも感動させ、男として自分もこうありたいと思ったということにならないか。
 さてどっち・・・・
この旗指物は東京大学史料編纂所が現在所有している。なぜここにあるのか、その経緯が判明すれば何かわかるかもしれないと電話してみたが、わからない。ところが・・・・・
燈台下暗し、実は同じ疑問を抱いて調査した人が四十年も前にいた。長篠城址史跡博物館初代館長、丸山彭氏である。
氏の調査によれば、矢張り落合左平次は長篠の戦い当時武田方の武将であった。武田家滅亡後は徳川家康に仕え、その後紀州徳川家の藩祖になった家康の十男、頼宣に仕えている。この旗はその後も落合家の物として子孫に受け継がれ、その後東大が所有することとなった。
 とすると、落合左平次がこの旗指物を使いだした時期が、徳川家に仕える前か後かはわからないが、強右衛門の磔された姿を筆写した時は武田の武将であった。このことからも、戦国時代はその後の平和な江戸時代に比べて主従関係において、個としての独立心が強く、敵であろうと男として立派なものは立派だと認め、逆にそのことを咎めでもしようものなら、器の小さい武将として見られた時代なのかもしれない。
 確かに、下剋上の時代と言われた戦国期は、後藤基次、渡辺勘兵衛といった、自らの才覚によって主家を渡り歩いた武将たちがいる。
 鳥居強右衛門の磔図の旗指物を背負ってその後の戦場を駆け抜けた佐平次の思いはどんなだったのだろう。身分の低い足軽でもその勇気が主家の奥平貞昌を助け、その功で貞昌は家康の長女亀姫を娶り、その後大名にまで出世した。いざ戦場に出たらこの旗に恥じることの無い様、自らの意に添わない卑怯な振る舞いは決してすまいと心に誓っていたのではないだろうか。



 
奥東三河地方に伝わる「山の湊」お話をかわら版にて公開中、そんな話が・・・読んでみると意外と面白い。
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