「あの太郎太夫さんが又何かやらかしてるげな」
ここは三河の国御油町の海岸、二、三日前から若い衆を使って、何やら櫓のような物を組み立てている。
「今度は飛ぶげなよ・・」
誰かが答える。
時は今からおよそ二二○年前の天明年間、江戸時代もこの頃になると、平賀源内に代表されるような民間の発明家が全国各地で雨後の竹の子のように出てきて、その多くの人たちが「変人、奇人」扱いされた。
『鳥のように空を飛びたい』太郎太夫さんもそう思った一人だ。十八世紀の始め頃の生まれと思われる太郎太夫は、三河の国、御油宿の戸田屋という女郎屋の次男として生まれたという。
若い頃から好奇心、研究心の旺盛な人で、これより以前、今でいう三輪の自転車のような物を発明し、それに乗って豊川稲荷に参詣して人々を驚かした。
さて、数日後、組みあがった櫓の上に現れた太郎太夫の姿はどのような物だったのだろうか。昭和の始め頃、太郎太夫の子孫にあたる方の物置から、竹の骨組みに渋紙を張り合わせた翼のような物が発見され、それが太郎太夫がこの時に使った物だといわれているが、残念な事に現存していない。
『太郎太夫さんは、千羽鶴で江戸まで行くそうな』こんな言い伝えが残っている事から、足で踏むと翼がバタバタ回転するという、極めて原始的なものであったらしい。
「よし」一言気合を入れて太郎太夫は大空に向かって飛び出した。翼は勢い良くバタバタ、バタバタ・・・
この後どの程度飛ぶ事が出来たかは分かっていない。しかし怪我をしてしばらく寝込んでいたという。
アメリカのライト兄弟が初めて飛行機を飛ばしたのは一九〇三年、しかしそれよりも十年以上前に愛媛県八幡浜生まれの二宮忠八という人がプロペラ付の単葉の飛行機を飛ばしています。
尤もこの時の飛行機は翼長四五センチ、全長三五センチの模型でした。これをもとに忠八は所属していた陸軍の上層部に本格的な研究、製作を上申したのですが握り潰されてしまい、その名誉をライト兄弟に譲ったのでした。
幕末の頃、長崎の出島のオランダ人から手に入れた本だけで蒸気船を作り上げ、来日していた欧米人を驚かした日本人、又それほど高級な店でもないのに、そこの女中が閑にあかせて柱の影で本を読んでいる姿に欧米人を感心させた日本人、『技術立国』日本の根のところが、江戸の太平の時代に醸成されていたのだろう。
この時代の識字率はおそらく日本が世界一だといわれている。それに加えて未知な物に対する旺盛な好奇心と、作り上げる能力・・
この後アジアのほとんどの国が欧米の植民地にされていく中で、それを諦めさせたのが当時の人の民度の高さだった事を考えると、私たちは怪我をして寝込んでしまった太郎太夫さんを笑う事は出来ない。
蛇足として、この太郎太夫の曾孫ぐらいにあたる人が明治初めにドイツから赴任し、東京帝国大学医学部の教授として、日本の医学の発展に貢献した、エルイン・ベルツ博士の夫人となった『ベルツ花子』という人で、豊川市の西明寺に博士の慰霊塔があります。
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