吉田の町を駆け抜けた幕末
 

「吉田の宿 かわら版」第5話

 慶応四年(一八六八)二月十日一艘の船が吉田の城下に入った。乗っていたのは尾張徳川家ご用達、鳴海宿の竹田庄次郎である。吉田家の家老達はわざわざ食事を出して庄次郎 をもてなし、何事か謀議をこらしている。
 既に正月三日、鳥羽・伏見において幕府軍と討幕の密勅を受けていた薩・長諸藩の軍が衝突、幕府軍は敗北し大阪城まで引き上げた将軍慶喜は、そのまま海路江戸へ帰ってしまっていた。
 この時大阪にいた吉田藩主、松平信古(のぶひさ)は混乱を極めていたこの地を密かに離れ、陸路伊賀、伊勢を経て正月十二日突然吉田に帰ってきた。
 『勤王』か『佐幕』か、伊勢から海路を取った信古の胸中はその船の如く漂っていた事だろう。と同時に藩の重臣たちも勤王と佐幕に分かれ藩論を統一するに至らなかった。
 この時既に慶喜は大政を奉還し、将軍職を離れているとはいえ、吉田藩の藩主として江戸城、溜間詰という幕府の重臣でもあり、開闢以来の徳川家の大恩を考えると、筋を通せば徳川に殉ずるのが道であり、吉田松平家を守るためには、時局に逆らわないのが道でもあった。
 鳴海宿、竹田庄次郎が吉田を訪れたのは実はこの様な時だったのである。今となってはその内容は知るべくも無いが、この後、藩論は勤王方に見方することに決した事を考えれば、庄次郎が伝えた内容は、御三家筆頭の尾張藩ですら、幕府を見限った事を告げ、討幕軍に加わるようにとの尾張藩からの説得ではなかったか。
 この後、吉田藩は征討軍に加わり戊辰の役を戦うが、はかばかしい活躍は記録されていない。むしろ特筆されるのは藩の決定を潔しとしない主に江戸詰めの一部の藩士たちが、脱走して上野の彰義隊に加わり、更に会津若松に転戦、あるものは戊辰戦争最後の函館の五稜郭の戦いにまで参加した事だろう。
 その一方で、十月になって藩主信古の実父、越前鯖江藩主間部詮勝(あきかつ)が不審を受けて江戸を追われその護送役に信古が選ばれている。間部詮勝と言えば大老井伊直弼の元で大勢の攘夷派の志士達を弾圧した張本人であり、その事の罪を問われての事だろうが、かりにも実も父親を護送しろとの命令は、たとえ最終の局面で討幕軍に見方したとはいえ、徳川恩顧の大名として、嫌がらせを受けたと言うことだろうし、この時の信古の胸の内は察するに余りある。
 幕末の混乱を扱った書物は多い。
その主人公の多くは、討幕を目指した西南諸藩の所謂志士達であり、又、最後まで討幕軍に抵抗した会津や奥羽列藩同盟の人達だ。それらは矢張り読む者の心を揺さぶる。しかしその一方で確かに吉田の城下にも幕末、維新の嵐は吹きぬけ、その嵐の中で苦悩し、命を掛けてそれぞれの身の処し方を決めていった人たちがいたことを私たちは忘れてはいけないのだろう。



函館五稜郭の戦い
 
東三河地方に伝わる「吉田の宿」お話をかわら版にて公開中、そんな話が・・・読んでみると意外と面白い。
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