源平の戦いで平家の若武者、平敦盛を討取った源氏方の武将、熊谷次郎直実の子孫が
今の愛知県富山村と北隣の長野県天竜村あたりに住み着いたのは、観応年間の一三五十年頃の事と言われている。その後、代々の当主達がその時々のことを書き綴ったものを、十二代目の直遐(なおはる)が整理し、書き改めた四百年以上の記録が『熊谷家伝記』として現存している。
その中に、永正八年の春(一五一一年)、大谷郷の鈴木九郎又と左閑辺郷の南左門太が西国巡礼と四国遍路の旅に行くと言って郷を出奔したと記されている。
出奔当初は郷もその話で随分と騒々しかったが、暫くすると人々の口にも上らなくなった、しかし、残された家族の苦労は大変なものだったらしい。
夏も過ぎ、秋も深まった頃そんな二人がひょっこり帰ってきた。この時土産に持ち帰ったのが火縄銃だったという。二人の話によると巡礼中に山城の国の札所に行く途中が戦場になっており、まだ殺された武者たちの死骸があちこちにころがっている中に、この火縄銃も棄てられていたらしい。
この記録が正しいとするなら通説を三十二年も覆す事になる。さらに、享禄二年(一五二九年)当時の熊谷家の当主直光の小舅にあたる、次郎吉はこの時武田晴信(信玄)に仕えていたが、火縄銃を手に入れて本家の直光に届けた記録も残っている。これでも通説より十四年早い事になる。
『熊谷家伝記』を研究されている山崎一司氏の本によると、当時のヨーロッパの火縄銃は、日本に渡来したものとは随分違った形をしており、この時代既に東南アジア諸国では独特の火縄銃が作られていて、種子島に伝わった火縄銃はこれとそっくりな形式であるらしい。
つまり、氏の推測によると、最初に日本に火縄銃を持ち込んだのは、ポルトガル人ではなく、当時、「倭寇」と呼ばれて、東南アジアの全域で活躍していた海賊兼私貿易商人達が東南アジア製の火縄銃を持ち込んだのではないかとの事だ。
火縄銃はその後の戦術を変えてしまった。またこの静かな山里も、これ以後戦国の騒乱の波に飲み込まれて行くことになるのである。
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