今からおよそ二六五年前の元文四 年、一隻の伝馬船が八丈島に辿り着 いた。この伝馬船は江戸堀江町の宮
本善八船に乗り組んだ一七人が、奥 州からの帰路に房総沖で遭難、親船 を失いつつも荒波を乗り越えて必死
の生還を果たしたものであった。 さらに江戸の人々を驚かせたのは、 その船に、二一年前に遭難、無人島
に漂着した遠州新居の三人が乗って いた事だった。
当時新居宿は対岸の舞阪との間に 渡し舟が通い、今切の関と呼ばれ、 譜代大名、吉田藩七万石が所管して いた。
享保四年(一七一九年)遠州新居 を出港した筒山五兵衛の持船大鹿丸 は新造の千石船、幕府の御城米の廻 送を命じられ、沖船頭左太夫以下一 二人が乗り組み仙台を目指した。こ
のなかに後に奇跡の生還を果す舵取 (別名親仁)甚八四六歳、水主仁三 郎四十歳、水主平三郎二一歳が乗組 んでいた。
銚子にて無事御城米を下ろし、再 び南部藩領にて木材を積み込み、江 戸へ向かう途中九十九里沖で難風に 逢い遭難、沖に流され舵も帆柱も失 った。約五十日間の漂流の後に島山
を発見、島に近づいた大鹿丸は岩に 打ち付けられ破船、急ぎ船に残って いた米七、八俵と手道具等を天馬船 に積み込み島に上陸した。
この時大鹿丸が漂着した島が現在 の鳥島、江戸から南へ五八〇キロに ある周囲約八キロの無人の火山島で、 当時も活発な火山活動をしていた。
当時、漂流者は帰国しても厳しい 取調べを受けた。それは破船を偽装 して積荷を横領したり、外国との接 触を疑った為である。その結果取調 べの記録が残り、現在も目にするこ
とが出来る。それによると鳥島は火 山島だけあって食料になりそうな物 は何一つ生えておらず、水も一滴も なかった。
このような厳しい環境の中で、乗 組員たちはどうやって命を永らえた
のだろうか。まず水は運び上げた手 桶や小桶を岩山の窪みに置いて天水 を溜め、流れ着く木材を桶に加工し てその数を増やしていった。魚や海 草などは比較的豊富にあり、また鳥
島はアホウドリの繁殖地で人が近づ いても逃げないので、棒などでたた いて捕まえて食料とした。
また、漂着して一年ほどたった頃 一艘の乗り捨て船が流れ着き、その 中に米が六十俵ほどあり、さらに種 モミが一俵あったことから、それを 岩の間のわずかに土気のある所に蒔
き置き、魚のわたなどを肥料がわり にして育てたところ、一年に三、四 俵ぐらい収穫することが出来た。
しかし、生きていくには厳しい環 境に変わりはなく、漂着後三年ほど
は十二人共残らず生存していたが、 その後の十年ほどの間に九人が次々 と死んでいった。このことについて 取り調べの記録では、全員病死とな っているが漂流者達が国許は帰って
から述べた記録では、内三人は『日 本へ帰る事叶ふべからず』とて希望 を失い自ら命を絶っている。
中でも無残なのは、伊豆の国出身 の水主で『最早古郷え帰る事叶ひか たなく思ひ定め候間、岩穴え入り申 す也、穴の口を石にてふさぎ給ふべ しとて、穴え入り申す也』と他の者
が諌めても聞かず、食を絶ってしま って『終にむなしくなり候』とある。
又在島中、漂流民達は山の中ほど にある大きな岩穴を住まいとしてい たが、初めてそこに入ったとき、く ぼみの砂を掘ってみると、下に炭が 残っており、以前にもこの島に漂着
し、漂流生活を送った者が居たこと が判る。
鳥島への漂流事件は、江戸時代を 通じて記録に残っているものだけで も可也の件数にのぼり、かのジョン 万次郎が流れ着いたのもこの鳥島で ある。万次郎の時代には太平洋を多
くの捕鯨船が航行していた為、助か る確率も高くなったが、新居漂民達 の頃は太平洋の捕鯨も始まっておら ず、在島中の二十年間一隻の船影も 見ることはなかった。
そうして二十年目にして漂着した のが先の宮本善八の持ち船だった。
親船はやはり島の岩礁に打ち付けら れて壊れてしまうが、伝馬船だけは 残った。上陸して島中を訪ね歩くう ちに岩穴を見つけ、中を覗くと鬼と もつかぬ生き物がいるのに驚き、逃
げ惑う背中に日本語で呼び止められ た。
三人の漂流民達は漂着当時着てい た衣は既になく、アホウドリの羽を 繋ぎ合わせて着ており、髪も整える 事もなく、おまけに潮焼けで顔は赤 黒くその姿を人と思わせる方が無理
であった。しかし、話をするうちに 互いに事情を理解し、大所帯での漂 流生活が始まった。
しかしこの島に残っても助けてく れる船が来る訳でもなく、又櫛の歯
が抜ける如く死を待つのも耐えられ るものではないと、伝馬船による決 死の脱出を決めた。約一月後、順風 に乗せて、船を漕ぎ出したが、元よ りどの方角へ行けば助かるのか分か
る訳でなし、全員でお払いをして決 めた北東へと船を進めた。そして五 日目の朝、『煙立ち候島間見へ候』 八丈島へ辿り着いたのである。
江戸時代は漂流の時代と言ってい いほどに漂流事件が頻発した。その 理由は色々考えられるが、江戸とい う生産はしないが大量に消費する町 がこの当時既に人口が百万に達し、
それを支える為に大阪との間に、急 速に船による流通が増え、その一方 で鎖国政策により造船、操船技術が 廃れたことが揚げられる。
三人の帰国は当時江戸でも大評判 になり、時の将軍吉宗の耳に入り、 たっての希望で対面が実現した。こ の時の様子を正史ではない、聞書き の記録で見ると、漂民への質問も通
常の仲介者を通したものではなく、 吉宗自身が直接した可能性が有る。
『声静かに候て聞き難く候間、近 く寄り候様にとての義、恐れながら
御前間近く罷り出で、段々様子具に 御物語り仕り候』雲の上の人と思っ ていた将軍に直々漂流生活の様子を 語る羽目になった三人の震える様な 気持ちもさることながら、苦難の日
々や、次々と死んでいく仲間の様子 などを聞く吉宗の目にも涙が光って いただろ事を想像するのもそれほど 間違ってはいないのではないか。
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