江戸時代も150年ほどたった寛延3年(1750年)それまで九家の大名が入れ替わっていた吉田藩も松平信復(のぶなお、長沢大河内家)が遠州浜松から戻ってきて、その入封直後の寛延4年には、吉田の大橋の架け替えが行われた。吉田の大橋と言っても、今の国道1号線に掛かる吉田大橋ではなく、むしろ今の豊橋に近く、その少し下流にあった東海道に掛かる橋のことである。
当時、幕府は主要街道に掛かる橋は直接管理しており、この時の架け替えも今で言う国の直轄工事として計画、江戸より作事方(今で言う国交省)の幕吏が吉田にきて実地検分を行った。ところが、当時幕府は財政難で、出来れば架け替えずに修理のみで済まそうと考えたのか、再び勘定方(今の財務省)の幕吏が検分に訪れ、やはり老朽していて危険であると判断、ようやく架け替えが決定した。
しかし、この時の作事方と勘定方の確執(何があったのか記録にないが、おそらく架け替えに要する予算折衝の段階で作事方がケツを割ったか、もっと安く出来ると勘定方が見栄を張ったかどちらかだろう)により、初めて勘定方により架け替えをすることに決まり、このことが後々の椿事出来の遠因になったと考えられる。
さて、幕府からは検分にも来ていた勘定組頭の井沢弥惣兵衛が普請奉行として吉田に乗り込み、実際の工事は、江戸の商人鎌倉屋吉兵衛の請負で始まった。又この時、過去に例を見ないが、大名への普請手伝いとして、加賀前田藩の支藩、大聖寺藩(7万石)の前田備後守に命が下り、多くの役人が派遣されて来た。一方、吉田藩はと言えば、この間警備監督の手伝いとして奉行クラスを数名出役させたに過ぎない。
工事の間、豊川の交通は渡船に切り替わり、渡船賃も決められた。ただし吉田町中の者については無賃であったと記録されている。
宝暦2年(1752年)3月3日に着工された工事も5月に至り完成、13日には渡り初めが関係者を集めて盛大に行われた。
ところが、同年秋頃になると、新しい橋が曲がるという椿事がおこった。
『秋ノ末ヨリ橋中ニテ九間曲ガリタルヨシ』『橋傾斜其余依 鹿薄旨 』と当時の記録に残っているが、具体的にどうなったのか今一つはっきりしないのは残念である。
『三河なる井沢が掛けし、やす橋の、曲がりて恥をかきつばた哉』
安普請の橋で恥をかいたことが、三河八橋のかきつばたにかけて酷評した当時の落首が残っている。
この不首尾により井沢はお役御免で家に籠られ、上司である勘定奉行の曲淵豊後守も御膳をとどめられた。(将軍に会うことを止められる。)
ここで勢いを得たのは作事方である。稲生備中守が普請奉行として乗り込み、前回に懲りて慎重を期したのか、6ヶ月を要する大工事となり、再び大聖寺藩に手伝いが命じられた。
しかし、しゅん工検査にやってきたのは再び勘定方の細井九助政昌らで、工事の疎漏を報告、関係者が処分されるに至った。二度までも普請手伝いに駆り出された大聖寺藩こそいい迷惑、この時ほど外様大名の悲哀を味わったことはないのではないか。
一方、吉田藩と吉田の町の人たちはどうだったのだろう。ここからは勝手な想像だが徳川の親藩としての吉田藩は、この大橋架け替えにさいして、さしたる出費もなく、むしろ町方は二度にわたる工事のおかげで潤い、直接関係のなかった町民にしても、太平の世に起こったこの事件がしばらくは「いい酒の肴」になっただろうと考えるのは私だけでしょうか。
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